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エッセー集 イタリア散歩道

風景を読む

千田 剛
イタリア語検定協会理事・イタリア文学研究者Le Ali 15号

東日本大震災で変わりはてた風景に茫然とたたずむ住民の姿は、69年前の敗戦時、焼土の中で立ちつくす親たちの像と重なり合う。生命が翻弄され国土がこわされたとき、ひとは残された風景と向き合うしかなかっただろう。そんな風景とのいわば交感現象に目を留めて「風景論(学)」という新しい知的な動きが生まれ、この数十年来、環境問題とも連動して、日欧米でさかんになっている。要はさまざまな学問的視点(地理、土木工学、宗教、神話、文学、美術、社会経済など)から風景というものを分析・定義し言説化する新しい営みで、今では哲学的総合まで行われている。

ところで、私はイタリアの風景に格別の魅力を感じてきた。風景が歴史性、神話性、風土性をたっぷりと含み、どれを切りとっても何か「物語性」を秘めている。それが光の力で構造的な美を生みだしている。風景の選択と解読は何から学んだのだろうか。私の場合、つぎの名前がまず思いうかぶ。RosselliniやAntonioni(映画)、Piero della FrancescaやMorandiなど(絵画)、PetrarcaやPavese(文学)などが、たくさんのヒントを与えてくれたように思う。

時どき思い出すことがある。1981年に、ボローニャ市立近代美術館で開催された「イメージと現実」の副題をもつ『風景展』をみたことである。その頃ローマに住んでいた私は、押っ取り刀で駆けつけ、丹念に観てまわった。それは各時代の絵画、各種の写真・地図・図面などの資料と説明パネルで構成された極めて啓発的な展覧会で、地元ボローニャ大学の教師が構想し学生が協力して作りあげた意欲的なものであった。当時、遠近法を生みだしたイタリア人の風景意識につよい関心をもっていた私にとっては、まさに千載一遇、願ってもない好機ととらえたわけである。

カタログは400ページに近く、たくさんの論考と図版がつまってズシリと重い。時折手に取り、「風景論」の誕生期の証ともいえる展覧会の余香をたのしんでいる。

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